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ピアノ協奏曲 (ディーリアス) : ウィキペディア日本語版 | ピアノ協奏曲 (ディーリアス)[ぴあのきょうそうきょく]
ピアノ協奏曲 ハ短調は、フレデリック・ディーリアスが作曲したピアノ協奏曲。幾度にもわたる改訂を経ており、各版で大きく内容が異なる。全ての版を通じての公開初演は1904年10月24日、ドイツ、エルバーフェルトでユリウス・ブーツの独奏、ハンス・ハイムの指揮で行われた。 == 概要 == 1887年のライプツィヒで出会って以来、ディーリアスはグリーグと親しく交際しており、同年のクリスマスにはグリーグは自らの「ピアノ協奏曲」の写譜をディーリアスに贈っていた。また、1888年に訪英したグリーグが、ロンドンでの演奏会で同曲を弾いて成功を収めるのを目の当たりにしたディーリアスは、ピアノ協奏曲という楽曲形式に興味をそそられたものと思われる。その後すぐにディーリアスは様々に構想を練ったものの、しばらく経った1897年にようやくハ短調のピアノと管弦楽のための幻想曲を完成させた。この時、曲は3つの部分が一続きになった形式で、中間部分は変ニ長調だった。この初期版は1898年に作曲者とフェルッチョ・ブゾーニが2台ピアノ版で演奏しているものの、公にされることはなかった〔。 理由は不明ながらディーリアスは幻想曲の改定に取り掛かり、3楽章のピアノ協奏曲となったものが1904年に初演された。この版では変ニ長調の部分が独立した楽章となった上で終楽章が新たに書き下ろされており、曲の評判は悪いものではなかった。しかし、これに満足できなかったディーリアスは再び改訂に取り掛かり、終楽章を破棄した上で変ニ長調のパートを第1楽章の中間において初版に近い構成に戻した。さらにピアノ独奏部の書法に関してブゾーニの弟子のピアニストTheodor Szántóに助言を求め、聴き栄えがするように書き改められた。この版は1907年10月のロンドンでSzántóの手で初演に至っており、彼に献呈されている〔。 以上のような複雑な成立の経緯と他者の手による独奏部の存在などから、以後に作曲されたディーリアスの協奏曲に比べると、認知されないままとなっている曲であるといえる〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ピアノ協奏曲 (ディーリアス)」の詳細全文を読む
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